Tamae Story

大事故を経験した幼少期

小鳥屋を経営する両親のもと(元々は祖父の店を継いでその後鍵屋になる)に生まれ、小さい頃から動物に囲まれ育つ。父の本家は隣にあり、小さい頃は祖父母や従兄たちといたことの記憶の方が多い。中でも大好きだった祖母の影響はかなりあると思っている。祖母はいつも縁側で、サムイを着て何かしら手仕事をしていた。その祖母が見守る庭で毎日毎日遊ぶことが大好きだった。裏山に行ってはツルを見つけターザンごっこをしたり、星がきれいだといえば校庭にテントを張ってお泊り会を企画したり、いつもたくさんの友達の中にいた。店を経営していた両親とは普通の家庭のように、みんなが揃って何かをするということはとても少なく、年の離れた妹は両親と、わたしは家で一人でいることが多かった。その中での楽しみは、公共の温泉に行った帰り道に星空を見ることだった。流れ星をいくつもいくつも見ては遠い空の向こうを想像していた。

わたしが保育園だった時に、父は大事故…交通事故にあった。助手席にいた祖父はダンプが突っ込んできて即死。父も一命をとりとめたものの生死を彷徨ったらしい。半年後に退院してきた時には顔は包帯でぐるぐる巻きで、小さいわたしはその姿があまりにショックで、近くに寄ることすら怖くて何年も隣に行くことができなくなった。もちろんしゃべることも…。父はそのことがあってか、育成会・交通安全協会・全国統計調査員など地域のボランティアとして、店の経営以外にも休むことなく働き続けていた。そのおかげかどうか、父はわたしの長女が生まれた同じ日の1999年5月13日藍綬褒章を受章した。そんな父が今ではわたしの大きな誇りです。子どもの頃一緒に話したり遊んだりできなかったけど、実はその背中をいつも見ていたわたしだった。

 

実は、運動が苦手だった

外遊び好きだけど実は運動が苦手な子どもだったわたし。走ってはドベ、何をしてもさえないわたし。それでも運動が大好きで、放課後はサッカーや野球やバスケットや鬼ごっこ、休みには一日スケートに行ったり家にいることが少ない幼少期。そして中学へ進学した時に、同じクラスのカッコイイと思った人がバスケ部に入ると知りバスケ部へ入部。もちろんレギュラーになることもなく、それでもバスケが大好きで毎日毎日仲間たちとボールを追っかけて・・・。顧問の先生も大好き、何より中学の担任が体育の先生で大好きで、その時に体育の先生になる!と決めた。それを宣言していたから担任は男子校の女子一期生としてわたしを推薦し、全校中でたった32名が女子という環境の中へ進学。体育大へ進むにはまあ、今考えれば必要な環境だったかもしれませんが…(笑)。とにかく毎日諏訪湖を走ってばかりで根性の基本はここで身についたと思う。

順調?!に体育大へ進学し、ここで自分の限界への挑戦という大きな宝物をゲットすることとなる。運動が苦手なアスリートが体育大でどうなったかは想像がつくことでしょう。1時限水泳、2時限陸上、3時限体操、4時限英語。。。みたいな授業。そして学寮だったので、24時間ほとんど監禁状態(笑)朝は点呼で起き、掃除で始まり、朝食をとるなり学校へ行き、22時門限ギリギリに帰寮し、数分でお風呂と夕食をとり点呼後は死んだように寝て。。。明日のことを考える余裕さえなく、目の前にあることをこなすことで精一杯な毎日。それでも日を重ねていくうちに要領を得てペースをつかみ、同じ環境の仲間と時には衝突をしたり慰め合ったり支えあったり。今ではあの頃の仲間や経験が大きな支えになっていることだけは間違いない。アスリートとしては決して思うような選手になったわけでもないけれど、でも確実に今の私の根源がここにある。

 

身体を壊して体験した、「何のため」の大切さ

そして身体を壊し、ある朝突然下半身が力が入らず立つことがままならない状態となる。必死に治してくれる医者を探し治療を探し途方に暮れた。数カ月過ぎた時後輩が言った。「医者でも何でもないんですけど、ちょっとすごい人がいるんですが行ってみませんか?」藁にもすがる思いで連れて行ってもらった。髭を生やした普通のおじいさん。
じーさん 「どうしたの?」
※わたしの心の中(はあぁ?!治してほしくて来たに決まってるじゃん!)
わたし  「立てなくなってしまったんです。前のような身体に戻してください。」
じーさん 「じゃあ立てばいいよ。」
実に無茶苦茶なじーさんだ。じーさんはブツブツ言いながら家の前にある川に行き、漬物石のような大きい石をとってきて、ガスでその石を焼いた。数分経ってから、その石をタオルで巻いてわたしのカラダを丁寧に少しづつずらしながら温めていく。少し経つと体の中の細かい骨が「ピシッ!ピッキ!」っと鳴るのがわかった。そのうちあまりにも心地よい温かさで気持ちよくなって寝てしまった。数時間たって目が覚めると、そこにはじーさんと後輩がいた。
じーさん 「目が覚めたね。じゃあ、立ってごらん!」
※わたしの心の中(はあぁ?!) 動こうとしないわたしを見て続けて言う。
じーさん 「ああ、だから動かないんだよな。」
何だかムカッときたわたしは、(どーでもいいや)って思って立とうとしてみた。(あれ?)下半身に感覚がある。下半身が温かいのがわかる。(なぜ?なぜ?なぜ?)無我夢中で立とうとした。あれだけどうにもならなかった足が自分の動かそうと思うように動こうとしていく。机を借りながらもそこに立つことができたわたし。
じーさん 「言ってる意味がわかるか?お前は治してくれる人を探していて自分で立とうとしなかったから、それだけのことなんじゃよ。」
何だかわからないけど涙がどーっと溢れて、「生きているんだ!!」って、さっきまでと変わらない景色がキラキラして天国にいるような気分だった。

この経験で気づいたこと。
目の前にあるどうでもいいことに捕らわれて、そのものの「何のために」というものがなくなると、同じことをしたとしても全く違う場所にたどり着くものになってしまうんだってこと。
全ては自分が決心しないと自分の人生は動かないということ。
このことを学んだ瞬間

大きな大きなターニングポイントNO1。

生死と向き合った妊娠・出産

そして就職をして恋もして結婚をした。結婚をして子どもを産んでって普通だと思っていたのに、妊娠をして、わたしを待ち受けていたのは流産と死産の繰り返し。死産をしたときには、風船を入れて膨らませて赤ちゃんを出すという死産を経験。もちろん赤ちゃんは死んでいるから陣痛がつくわけでもなく子宮口が開くわけもない。だから陣痛促進剤を使い、風船の先には2Lのペットボトルに水を入れ何本も結びつけ、まるで拷問の時間が過ぎる。一体いつまでこんな時間が続くんだろう?この先に待っているのは何なんだろう?赤ちゃんが死んでいるという事実の哀しみと、拷問に対する恐怖と、自分の生きている無意味さ無力さになんの生きる気力もなくなった瞬間。そして一週間が経ったある日、婦長さんが言った。「辛いね。でも今日何とかして赤ちゃんだそうね。」そういって分娩台に移動する。分娩台で陣痛もないのにいきむ。風船の先にあるペットボトルは引っ張られ内臓が飛び出しちゃうんじゃないかという恐怖、お腹の上に何人もの看護婦さんが乗って押されて。。。 そんな数時間が過ぎた時、わたしの心肺がフラットになったペースメーカー音を自分の耳で聴いた。「やっと楽になる。死ねたんだ。よかった。」そう思った瞬間、上から分娩台に寝そべっている自分を見ていた。婦長さんがわたしのほっぺたを叩いて起こそうとしている。主人が叫んでいる。いろんなものをいっぱい見て、それでも楽になれたことでほっとしていた。なぜだかそこにいない両親も見える。遠く田舎でわたしを心配している顔。わたしのこの状況を知らない友の顔。瞬間移動するかのように沢山のものが見えた。「あれ?!わたし生きたい!もっともっとやりたいことがあるからどうか生き返らせてください!」って。その時、「たまえ~」と叫ぶ主人の声で目が覚めた。これは夢?何?わたしどうなっちゃったの?!分娩台にのっている。お腹にいたはずの子どもはトレーの上に血まみれになって流し台に置かれている。しばらく状況がわからなかった。「あっ!わたし生きている。」その事実だけをやっと受け入れることができた。

生きたい!って思ったものの、このお腹の中にいた子どもはもうどこにもいなくて、わたしだけが生きていることが辛くて、時間がとまったようだった。病室ではただぼ~っと空を何日も見ていた。何もすることすらできず考える事といえば死んでしまった子どものことだけ。子どもの名前は「ちから」と決めていた。ちからが死んででもわたしをここに戻した意味。それを探すには数年かかりました。怪我をしたときに「わたしらしく生きよう」って決めたはずなのに、人は少しでも普通の生活が過ごせると大切なことを見失って傲慢に生きること。それでも生きなくてはいけない自分の意味。主人とこのことで話し合うことはなかった。それぞれがそれぞれの時間と思いで乗り越え、あるときに提案をする。「夫婦が子どもを授かることは嬉しいけれど、その前に二人の人生がこれでいいか考えない?!」その結果、主人もわたしも仕事を辞め貯金だけでとりあえずやりたいことをやり、人生を二人して探しに行く一年を過ごす。そのさなか、長女を授かったことを知る。あんなに何年も病院に行って治療をしていたのに、この子は自然にわたしたちのもとにきたんだよね。妊娠していることに気づいた時に確信した。「この子は絶対に生まれてくるんだな。」って。

 

わたしを変えた、長女の存在

1999年5月13日。数分の陣痛だけでなんの痛みもなくスルーっと生まれ落ちてきた。じ~っとわたしの顔を見て笑うの。穏やかな優しいその顔。立ち合いを予定していた主人は急きょ廊下で待っていた。産声を聞いて入ってきた。真っ先にわたしに言ってくれた言葉が「ありがとう」だった。この子に会うまでに長い長い時間がかかったけれど、生きるってこんなに凄いことなんだって、簡単に死んじゃいたいなんて言っちゃいけないって思った。そしてここにきてくれたこの子を、この子の命を独り立ちするその日まで、なんとしてもわたしたち夫婦二人で守ろうと誓った瞬間だった。これがNO、2の人生のターニングポイントとなる。

それからは毎日がほんとうに幸せだった。3人で川の字で寝ることも娘の鳴き声もみんなみんなキラキラしていた。そして娘が1歳半になった時、この子の為に田舎に行こうと引っ越しを決意。食も住まいも貯金も何もないけど、3人が一緒ならどうにでもなると思った。田舎暮らしは娘の性格にはぴったりでとても幸せな毎日。そして引っ越し先から歩ける距離に、間欠泉プールがあって毎日娘と遊びに行っていた。そこで仲良くなったママ友が「赤ちゃんに水泳教えてよ!」って言ってくれてサークル活動みたいなものが始まり、それをきっかけに立ち上げたのが任意団体「自然の心健メソッド」。この活動の基本は、我が子にとって「生きる力」をつけるために必要なこと大切なことを活動していこう。わたしの知っている人・もの・ことをこの子に伝えよう!という思いが土台となった活動でした。2016年までの16年間で多いときには会員数500名もの大きな団体となった。

「自然の心健メソッド」の掲げたテーマは「あなたらしく今を生きようよ!!」
人は必ず死ぬんだ!ってことを強く知った人生だったからこそ、過去の後悔やまだ起きぬ未来の不安に右往左往することなく「今」目の前にあることに対し、自分がピュアに生きることができるか?!これが大切だと思ったからこそ掲げたテーマ。自分らしく。。。って簡単そうだけどなかなかできない。なぜなら人と同じがベストという教育を受けてきたから、オリジナルとかオンリーワンになれていない。16年の活動のほとんどが、マニュアルとかお手本があったわけでなく、常に創造し手探りで活動してきたためにほとんどが失敗だった。それでも不器用なわたしに手を差し伸べてくださる人が、一人また一人と増えていき支えてもらったからこそできてきた活動。創造して作り上げた道中で、手に入れたものを欲しいという人にあげたりとられたりしながらも無我夢中で突っ走った16年。なんにも自分の手の中には残っていないと思ったその時、自分の後ろを振り返った時に見えたものがあった。それは沢山の人の笑顔!!。それを見た時に、一番欲しかったものがその笑顔だったことを実感した。
そんな活動を16年、自分なりに「わたしらしく今を生きる」ができたこと、我が子が家を育ったこと、心健の想いを引き継ごうという仲間ができたこと、。。。etc これが、16年に活動に幕を閉じようと決意したきっかけとなる。

 

イノチの樹として

そんな心健の活動は、Tamaeという人間がひとつの思いを掲げて突っ走ってきた組織。その中で沢山の氣づきや考えるきっかけをもらった。そしてなんとなくわかってきたことがある。それは・・・
・「自分はどんな人間だろう?」と彷徨っている人が多いこと
・自分で自らの人生を決心できない人がいること
・魂レベルで物事をとらえようとしている人が増えてきたこと      などなど。。。
かつては私もそうだった。生きていることが当り前という前提で生きていると、目に見えることに捕らわれ、目に見えることが世界のすべてと思い、本当に大切なものを見失う。
生死を彷徨ったわたしだからこそ伝えられる「生死」とか「魂」」の話。
目に見えぬこと、カラダの事、ココロの事、カラダとココロの繋がりの事、月とカラダとココロの関係を、Tamaeの言葉で伝えて、自分の人生を自分らしく生きたい人の背中を押したい!
そう考えるようになった。

人はこの世に使命を宣言しそれを許されたものだけが人となり、産土様という母を持ち鎮守様に守られて今ここに生きている。その使命を果たすのに、一番良い環境を現在の両親と選び生きていること。そして産道を通るときにその使命は忘れるようになっていて、その使命を自分で思い出すために様々な経験を繰り返しているということ。そして使命を果たすためにどんな武器と課題をもってきているかを知り自分で受け止め、自分の人生を自分で決心させるプロジェクトを創造し自分の人生の役目として残こそうと決心した。

その後、「心健メソッド」は訳あって後輩たちに明け渡すこととなった。
*ここは話せば長くなるので割愛
そして、たった一人になり、活動する場も会員もなくなりたった一人で暗闇に潜り、それでもどうしても譲れない思いがあることに気づき、人生の集大成として団体でもなく、もとはしたまえという人が今日という暇で磨き上げていただいた先人の思いや、次世代につなぐべき重いなどを、和多志が伝えよう。
そう決心した場所が「イノチの樹」。

樹木は自分の皮が誰かにえぐられても、傷つけられても、自分で樹液を出して修正してまた新たな形を作り、次の誰か必要な人に栄養を分け与える存在。そんな存在になりたくて、だれかのイノチに寄り添いたくて、命名したのです。

和多志を決心するためのプロジェクト!
和多志をチャレンジするためのプロジェクト!
それらをできる場所が

「イノチの樹」


たった一度の人生です。

後戻りはきかないたった一度の人生です。
和多志たちはみんな、生まれたその日から確実に死に向かって生きています。
ならば、「今この瞬間」をもっともっと大切に生きませんか?!
和多志が和多志らしくこの瞬間を生きませんか ❣

そんなお手伝いをするのが、「イノチの樹」=Tamae の 役割=使命 です。
必要としてくださる方のもとへ、この想いがどうか届きますように。。。
あながあなたらしく「イノチ」を生きられますように。。。

ところで、みなさんはご自身の氏名は自分で決めてここに生まれてきたことを知ってますか?
氏名は使命。
この世に生まれやるべきことを決め、それを氏名に託したのです。
忘れないように、何度も何度も沢山呼ばれる言葉だから。
氏名は使命。

たまえの言霊。
「たまえ」
様々な生命の集合が共にバランスをとり栄えていき、真理を多くの人に伝えていく人。
大いなる知恵を受け、ここの花を咲かせ満たし、橋を架けていく人。
そんな使命を持っています。

「たまえ」とは
ポジティブ・忍耐力・器用な能力を持ち、
責任感・平等、太陽の力によって、
人の気持ちがわかるからこそ導ける、自由と自立の道へ輝かせれる人。

沢山の学びや体験を、自分の言葉で表現し、誰にもできない命に灯をともします。
こんな「たまえ」が伝えている場が「イノチの樹」。
どうぞ宜しくお願いします!

長文お付き合いいただきありがとうございましたm(__)m

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